日々考えよう


by kunihisaph
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論理的な文章とは何か

よく「この文章は論理的である」という言い方をします.これはどういう意味でしょうか.

たとえば「地球が丸い」ということを主張する際に,
神が言うことはすべて真である,それゆえ地球は丸い (1)
といえば,論理的ではありません.しかし,
神がいうことはすべて真である,神が地球は丸いといった.それゆえ地球は丸い (2)
といえばどうでしょうか.形式的にはちゃんとした論理的推論になっていますが,この主張を読んで「地球が丸いということを論理的に説明しているなあ」と思う人は(論理学者以外)まずいないでしょう.では次のような文章はどうでしょうか.
遠くから船がこちらへ向かってくるとき,まず帆の先端から見えてくる.もし地球が平らであるならば全体が一度に見えてくるはずである.ゆえに地球は平らではない (3)
これは論理的だと思えるでしょう.場合によっては
遠くから船がこちらへ向かってくるとき,まず帆の先端から見えてくる.ゆえに地球は平らではない (4)
という文でも「論理的だ」と思う人がいるでしょう.

この差はどこにあるのか.

結局「論理的だ」という評価をする場合,実は論理的形式にのっとっているかどうかというよりも,論者が真だと前提している文と読み手(論理的か論理的でないかを評価する側)が真だと前提している文とが一致していることが重要だったりするわけです.

だから正確には(表に表れている文が)論理的形式にのっとってなくとも,その間を読み手が容易に埋めることができるならば,「論理的」と評されるわけです.

たとえば,(4)の場合だと,(3)における「もし地球が平らならば全体が一度に見えてくるはずである」ということを知識としてもっていたならば容易に(4)の前提と結論の間を埋めることができるわけです(ちなみに,間さえ埋めれば論理的でない主張など-(1)も含めて-ほとんどないのではないかとすら思えます).

しかし,いずれにせよ,(4)の文章はあまり親切な文章だとはいえません.このくらいのレベルだと,それほど戸惑う人もいないかもしれませんが,もうすこし話が非一般的になったり,埋めるべき行間が増えると,理解できなくまる人も多く出てきます.

ちょっとここで話が変わりますが,いわゆる「論理力がある」といわれる人は,いまの(4)のような文章を(3)のような文章に再構成できる人のこと,もしくは(4)のような文章ではなく(3)のような文章を書ける人だと思います.

ところで,学問的に創造的な議論ができる人というのは,もちろん後者の能力も必要なのですが(というか前者の能力があれば必然的に後者の能力も備わっているはず),どちらかというと前者の能力のほうが必要であるように思えます.

たとえば,「創造的な議論」とはどういう議論か.ふたつあると思います.

「一般に真だと認められているような文からいままでに誰も主張しなかった文を導出する」ことと「一般に真だと認められている文を論理的に導き出す文を探し出す」ことです.

前者の代表例は,哲学で言うと,「ゼノンのパラドクス」のようなものです.「ゼノンのパラドクス」については長くなるので紹介しませんが,ご存じない方はここをご覧ください.

後者は「なぜ~なのか」という形で問われます.ほとんどの学問的議論はこの形ですね.

あと「~とはなにか」というのも,いくつもの「~」であるような具体例(つまり真であると認められている文)を,論理的に導出できるような「~とは・・・である」という文を見つけることですから,やはり後者に相当します.

後者の場合,「AならばBである」のAの部分(前件という,Bが後件)を見つける作業なわけですが,後件から前件は論理的には導き出せませんから,この作業は論理的な作業ではありません.

前者は,確かに後件を見つける作業ですが,世の中には一般に真であるとみなされている文は無数にあるわけですから,どれとどれを組み合わせればそのようないままでに誰も主張しなかったような文を導出できるかはまったく「センス」によるもので,論理的ではありません.

つまり,創造的な議論をするためには論理的な作業をする能力とはちがった論理力が必要なわけです.
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by kunihisaph | 2005-10-04 20:02 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書