われわれはマトリックスの住人か
2004年 12月 12日
哲学には「反実在論」と呼ばれる立場があります.ある対象が「本当に」存在するわけではない,とする立場です.
たとえば,反実在論の中のひとつの立場である「観念論」とは,いま目の前にあるPCは,私たちが知覚,すなわち,見たり触ったりするからこそ存在するのであって,知覚なしには存在しないとするわけです.
言い換えると,事物は精神の中にのみ存在するということになります.この観念論の祖とされるバークリーという哲学者は「存在するとは知覚することである」という言葉で有名です.
さて,この反実在論の立場を,ダメットという哲学者が,「ある係争クラスについての,それを検証する手段が存在しない言明の真偽は確定していない」とする立場であると定式化しました.ここで「係争クラス」とはいまそれが存在するかしないか問題となっている対象の集合くらいの意味で考えてください.
たとえば冒頭で挙げた観念論では,係争クラスは物的対象—―コップとか机とかPCとか――です.この物的対象が存在しない,という立場(反実在論的立場)からすると,だれかが「隣の部屋に机がある」と言ったとして,(誰かが知覚しない限りテーブルは存在しないと考えるのだから)それが本当なのか嘘なのかはわからない(真偽は確定していない)というわけです.
一方,実在論の立場ではそれは本当か嘘かのいずれかで,これは私たちの常識的な立場ですね.
こんな面倒な定式化をして何かの役に立つのか,と思われるかもしれませんが,実は,このように定式化された「反実在論」はいろいろと応用が利きます.
たとえば,未来に関する言明は現時点では検証しようがありません.だから「未来に関してなにか言えば,それは本当か嘘かのどちらかだ」とする立場は未来が実在すると考える実在論で,そうでない立場は反実在論なわけです.
つまり,これは言い換えると,運命論者は実在論者ということになるわけですね.
さて,映画『マトリックス』は,未来社会において人間は機械が動くためのエネルギーとして利用されるのみで,人間たちは「マトリックス」と呼ばれるAIがつくった仮想現実の中で生活している,という設定でした.
映画の場合は,その世界を外から見ている「観客」が存在するし,映画そのものの中でも,マトリックスに取り込まれていない人間たちが存在したわけですが,では,今私たちが生きているこの世界がまさしく映画で描かれていたような世界で,それに気づいている人が誰もいないという可能性はあるでしょうか.
この問題は,ヒラリー・パトナムという哲学者が,「水槽の中の脳」というかたちで一度問題にして,それに対する答えも言ってくれています.
この「水槽の中の脳」は,実は私たちには身体などなく,水槽の中で培養されている脳に過ぎないのではないか,そしてそれは誰にも証明できないのではないか,という問題です.
パトナムは,しかし,誰にもそれが本当か嘘かわからないのだったら,そもそもそんな想像しても意味ないじゃんと言います.
私たちが「水槽の中の脳」かもしれないという疑問は「神の目」を想定して初めて意味のあるものになるのですから,言ってみれば,そういう疑問を抱く人は,私たちの世界を超え出た「神さま」を認めているようなものだというわけです.もっと専門的な言い方をすると私たちの主観と独立の真理を認めている,ということです.
これはもちろん,ダメットの実在論‐反実在論の定式化の応用で,ここでは私たちの主観と独立の真理が係争クラスとなっています.
仮に,私たちの主観とは独立に真理が存在しているならば,「私たちは実はマトリックスの住人なんじゃないか」という疑いは本当か嘘かのいずれかです.ところが,私たちの主観とは独立に真理が存在していないならば,そのような議論は嘘でも本当でもない無意味な議論となるわけですね.
まあ,そんな心配しても意味ないよということです.
たとえば,反実在論の中のひとつの立場である「観念論」とは,いま目の前にあるPCは,私たちが知覚,すなわち,見たり触ったりするからこそ存在するのであって,知覚なしには存在しないとするわけです.
言い換えると,事物は精神の中にのみ存在するということになります.この観念論の祖とされるバークリーという哲学者は「存在するとは知覚することである」という言葉で有名です.
さて,この反実在論の立場を,ダメットという哲学者が,「ある係争クラスについての,それを検証する手段が存在しない言明の真偽は確定していない」とする立場であると定式化しました.ここで「係争クラス」とはいまそれが存在するかしないか問題となっている対象の集合くらいの意味で考えてください.
たとえば冒頭で挙げた観念論では,係争クラスは物的対象—―コップとか机とかPCとか――です.この物的対象が存在しない,という立場(反実在論的立場)からすると,だれかが「隣の部屋に机がある」と言ったとして,(誰かが知覚しない限りテーブルは存在しないと考えるのだから)それが本当なのか嘘なのかはわからない(真偽は確定していない)というわけです.
一方,実在論の立場ではそれは本当か嘘かのいずれかで,これは私たちの常識的な立場ですね.
こんな面倒な定式化をして何かの役に立つのか,と思われるかもしれませんが,実は,このように定式化された「反実在論」はいろいろと応用が利きます.
たとえば,未来に関する言明は現時点では検証しようがありません.だから「未来に関してなにか言えば,それは本当か嘘かのどちらかだ」とする立場は未来が実在すると考える実在論で,そうでない立場は反実在論なわけです.
つまり,これは言い換えると,運命論者は実在論者ということになるわけですね.
さて,映画『マトリックス』は,未来社会において人間は機械が動くためのエネルギーとして利用されるのみで,人間たちは「マトリックス」と呼ばれるAIがつくった仮想現実の中で生活している,という設定でした.
映画の場合は,その世界を外から見ている「観客」が存在するし,映画そのものの中でも,マトリックスに取り込まれていない人間たちが存在したわけですが,では,今私たちが生きているこの世界がまさしく映画で描かれていたような世界で,それに気づいている人が誰もいないという可能性はあるでしょうか.
この問題は,ヒラリー・パトナムという哲学者が,「水槽の中の脳」というかたちで一度問題にして,それに対する答えも言ってくれています.
この「水槽の中の脳」は,実は私たちには身体などなく,水槽の中で培養されている脳に過ぎないのではないか,そしてそれは誰にも証明できないのではないか,という問題です.
パトナムは,しかし,誰にもそれが本当か嘘かわからないのだったら,そもそもそんな想像しても意味ないじゃんと言います.
私たちが「水槽の中の脳」かもしれないという疑問は「神の目」を想定して初めて意味のあるものになるのですから,言ってみれば,そういう疑問を抱く人は,私たちの世界を超え出た「神さま」を認めているようなものだというわけです.もっと専門的な言い方をすると私たちの主観と独立の真理を認めている,ということです.
これはもちろん,ダメットの実在論‐反実在論の定式化の応用で,ここでは私たちの主観と独立の真理が係争クラスとなっています.
仮に,私たちの主観とは独立に真理が存在しているならば,「私たちは実はマトリックスの住人なんじゃないか」という疑いは本当か嘘かのいずれかです.ところが,私たちの主観とは独立に真理が存在していないならば,そのような議論は嘘でも本当でもない無意味な議論となるわけですね.
まあ,そんな心配しても意味ないよということです.
by kunihisaph
| 2004-12-12 11:26
| ヘリクツ/疑問/雑学/読書