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日々考えよう


by kunihisaph
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個性を伸ばすべきか

現代日本でも個性というものに対するこだわりというのは非常に強くなっています.他人にわかってもらえなくても,自分の考え方を貫く人が「かっこいい」とされたり,他人とは違うような何かをもっている人が崇拝されたりします.

もちろん,「出るくいは打たれる」というようなところが日本にはまだありますが,しかし,それは単なる「嫉妬」によるものですし,そして,その嫉妬が怖い人が,個性を抑えて他人と違うことをしないようにしようとするだけだったりします.また,単に他人に同調するほうが楽だから,というのも,個性を抑えることの理由としてあるでしょう.

とくに,若い女性のもう,ほんとに驚くくらいで,だれもかれも同じ化粧に同じ服装なわけですが,これは嫉妬に対する防御と,他人に同調する楽さ,というものがあるのだろうと私は推測します(先日も知り合いの女性化と思って声をかけたら全然違う人でした・・・).

しかし,そういう人たちも,その価値観そのものは,改めて聞くと,個性があるほうがカッコイイ,と思っているわけです.だから,他人と同調して特に目立ったことをしない人たちも,別に「そのほうが価値があるから他人と妥協している」というわけではないのがほとんどだと思います.

こういう「他人に妥協せず,わが道を行く」というようなことに価値観を見出すのは,西洋の影響です.西洋になぜこのような価値観が生まれたのでしょうか.

ひとつはキリスト教圏における「救済」の問題です.神が人を救うとき,「人間」という大雑把なくくりでは,個人の救済ができませんね.そこで人間一人ひとり(というより個物一つひとつ)には「このもの性」というものがあるという考えがドゥンス・スコトゥスという神学者によって生まれました.

これが西洋における個性重視の始まりだと思います.そして,この個性の重視と重なるもうひとつの思想が「自由」の重視です.

以前は,人間はとにかく無知なだけで「善」が何かを知ればそこに向かうものであると考えられていたのですが,スコトゥスは,人間は何が善かわかっても,それを選択しない自由が人間にはあると考えました.

キリスト教を知っても(もちろん神学者のスコトゥスにとっては信仰は「善」です),それを信仰するかしないかは個人の自由であり,だからこそ,そこであえてキリストの信仰を選択することに価値があると彼は考えたわけです.西洋における,個性や意志の重視はここに源泉を持つのです.

さて,ともかくも,個性の尊重はこのようにして西洋の価値観であるわけだけで,それほど根拠のあるものではありません.

最近の学校教育で「個性の重視」など言われますが,そんな教育が本当に必要なのでしょうか

確かに,世の中の人間すべての言動にまったく個性がなくなると何らかの問題があるのかもしれませんが(ないかもしれない),しかしそんなこと(個性がまったくなくなるということ)はありえない,と私は思います.

よく中学とか高校とかの校則とかで「個性がつぶれる」とか言いますが,そんなこと個性というものはつぶれるわけがありません.

真に強い個性ならば育てようとしなくても育つし,潰そうとしてもつぶれない.そして,別に個性がなくても,「和をもって尊しとなす」というのが日本の価値観だったわけだしそれでよいのではないかと思います.

さらに言うと,「現代社会では個性が重視されている」と言いましたが,であるということにも注目しておくことは重要かもしれません.

たとえば,勉強がまったくできない,人に迷惑ばかりかける,スポーツの才能も芸術の才能もまったくない,というのも立派な個性ですが,しかしそんな個性は誰にも歓迎されませんよね.犯罪者だって個性的ですが,社会的には重視されるどころかむしろ排除されます.

そもそもが,真に個性的な人物というのはえてして周りからすると迷惑なことが多いものです.それは日本社会がどうこうではなく,西洋諸国においてもそうでしょう.

まえに,ちょっと「自分探し」ということについて書きましたが,このようなものが「流行っている」背景には,そのような西洋の個性重視の価値観に毒され,平凡な自分を否定したくて,「他者と違う自分」というものを求めていることがあるのでしょう.

ですが,ここまで述べてきたように,個性重視という価値観は西洋の価値観に過ぎないし,さらにでは実際に「個性」というものが求められているのかというと,実は社会の中の限られた価値観にしたがうような個性(そんなものを本当に個性と呼べるのか)しか求められていないわけなのですね.

ちなみに,個性と関連してオリジナリティということをいうと,まず,「完全なオリジナル」というのはおそらく存在し得ないし,すべては人まねから始まっていると思います.そしてどんなに人まねしても(個性がないなんてことがありえないと同じように)どこかにオリジナリティは含まれている.つまり,オリジナリティのある・ないはどれくらいそのまねしたものから離れているか,もしくはまねした複数のものをうまくブレンドしているかに過ぎなかったりします.

もうひとつちなんでおくと,学問においてはオリジナリティというものがすごく重視されているように思えますが,これも最近の話で,とくに仏教においてはいかに開祖仏陀の教義に忠実であるかが重要だったし(親鸞の『教行信証』はこれが大学の卒論だと確実に落とされるようなくらい引用ばかりの本),西洋でさえ,どれだけかこの偉大な哲学者(アリストテレスなど)の思想を忠実に再現できるかが重要であったりしました.
by kunihisaph | 2005-01-04 11:53 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書