日々考えよう


by kunihisaph
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努力と金メダル

やっとお祭り騒ぎも終わりか.

野口なんとかって人よかったね,金メダル取れて.これで取れなかったら,「高橋尚子だったら金メダル取れてたかもしれないのに」とかさんざんいわれたんでしょうね.いいじゃん,べつに日本人が金メダル取れなくったって.

金メダル金メダルといっている人を見るといつも言いたくなります.「日本選手が金メダル取れたからって,あんたが偉いわけじゃない」.

それはともかく.金メダルを取った選手がインタビューで「努力したから取れました」と答えるのはおそらく真実でしょう.いくら才能があっても,努力せずに金メダルを取るのは論理的には可能でも,現実的には不可能だからです.

だからそれはいいとして,しかし,「努力は決して裏切りません」という台詞はどうかと思います.「努力することは成功するために必要な条件」ではあっても(いや,いま言ったように論理的には必要条件だともいえないのだけど,経験的にね),「努力することは成功するのに十分な条件」ではないのです.

このあたりを履き違えると,失敗した人間に「努力が足りないからだ」という非難が浴びせられることになったり,「とにかく努力すれば何でもできる」という「特攻精神」がまかり通ったりするわけです.

銀メダルどまりだったり,何のメダルも取れなかったり,それどころかオリンピック選手にすらなれなかった選手もその多くは,金メダルを取った選手に負けず劣らず努力はしているはずで,「努力は決して裏切りません」という台詞は,言い換えると,銀メダル以下の選手は努力をしていなかったかのようであまり聞いていて気持ちのいい台詞ではありません.もちろん言っている選手に悪意がないのはわかってはいますが.

一方で,結果が出なくても,「努力」という物語によって,「よくがんばった」といって「みんなで感動する」という風潮も世の中にはあります.

「結果なんてどうでもいい,がんばったんだから」というやつですね.

でも,これってうそ臭い.

結局,最終的に評価されるのは,好き嫌いは別として,やはり結果なわけです.金メダル取ったかとらなかったか.

まあ,金メダルに関してはともかくとして(日本人選手がメダルを取ったからといってなにかこちらに利益があるわけでもないだろうから),社会においては「だってがんばったもん」は誰も認めてくれないわけです.

金メダル選手の「努力は決して裏切りません」も,メダルが取れなかった選手に対しての「だってがんばったもんねえ」もどちらも過剰に「努力」というものを前面に押し出しすぎているような気がします.

もちろん,努力というのは非常に重要です.しかし,それはあくまで何らかの結果をうみだすものとして重要であるということで,なにか「感動の道具」としての努力や特攻精神を植えつけるための努力の称揚は,なんとなくいやな感じになります.
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by kunihisaph | 2004-08-29 10:34 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書

資本主義と恐怖

世の中無駄なものが多いですよね.携帯やPCもそうだし.あれば便利だけど,なくても生活できますよね.どちらも私自身使ってるけど.携帯はあまり使ってないか.

それはともかく,そんなこと言い出したら,電話そのものも要らん,テレビも要らん・・・となりますよね.洗濯機や冷蔵庫も?

そんな風にきりがないし,実際にそれらがなくなると不便な生活になります.しかし,だからといって,これ以上不必要なものを許容するのもどうかと思います.このあたりの論理的な線引きなんて不可能なんでしょうね.

ところで,資本主義を成立させるものというのは,一方の極としていま言ったような「便利」というのもありますが,「恐怖」というのは消費欲としてそれを上回っているような気がします.

たとえば,健康グッズなどは基本的に「病気,怪我への恐怖」をあおっているわけでしょ?

サプリメントとか.現代人はこれが不足しがち,あれが不足しがちって,ほんとかよ.と言いつつ,いま「マルチメネラル」っていうの,摂っちゃったわけですけど.人間ドッグなんてのも本人はなんともないのに,異常を見つけ出して「治療」という商品を売りつけようとしているわけです.

衛生グッズなどもそう.「ほんとかよっ」って突っ込みたくなるほど,あそこもここもばい菌だらけ.いやまあ,それ自体は本当なんでしょうけど,それが本当にどこまで有害かなんですよね.

トイレの消臭剤なんかも一種の「におい」にたいする恐怖でしょ?うんこはにおうもんなんだよ.がまんしろ.「音姫」とかいう,用を足す音が外に漏れないようにするグッズもそうですよね.「音が聞こえることへの恐怖」.

これらの少しひねったバージョンが「買ってはいけない」系の本ですね.「買ってはいけない」ということによって上記のような「何かを売りつける」ものではないので信憑性があると思わせておいて,実のところその本を売ろうとしていたり,単にライバル商品をけり落とすことが目的だったり.

まあともかく,こうやって考えると,携帯をもつことなんかも,「流行から遅れることへの恐怖」がないとは言えないですよねえ.中高生なんか,それこそ必要ないだろうのに「みんながもってるから」って親に買ってもらうんでしょうね. CDなんかもそういう側面あるんじゃないでしょうか.「これ聞いておかないとみんなの話に入れない」という恐怖.服なんかもそう.

いま言ったようなことって,テレビ番組を見ていると特に強く感じます.あ○あ○大辞典とか.「これを食べなきゃ大変なことに」みたいな.
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by kunihisaph | 2004-08-13 09:12 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書

頭のよさと笑い

「お笑い芸人」というのはかなり「頭のよさ」が要求されるな,とつねづね思います.たとえば,ダウンタウンの松本人志とか,島田紳助とかはかなり頭がいいと思います(個人的に紳助は嫌いだが).

ただし,芸人の中には,仕草のおかしさや,そういったもので笑わそうとしているものが多いですね.ダチョウ倶楽部とか出川なんかがそれなんですけど.いずれも,自分の面白さを引き出してくれる相手がいないと成り立ちません.

ところで,「頭のよさ」と「笑い」がなぜつながるのか,そしていっぽうで,つながらないのに,面白いことがあるのはなぜか

そもそも「笑い」というのには,二つの種類があると思います.どちらにも共通するのは「日常からのずれ」「予期されるものからのずれ」です.

さて,まず第一は,「通常」よりも劣ったものを見て優越感を感じることによる「笑い」です.これには頭のよさはいりません.あるひとのドジな姿を見たときに出る「笑い」です.

たとえば,ある人が歩いていて,通常ならそのまままっすぐに目的地にすすむはずなのに,不意になにかにつまずいて転ぶ,つまり予期しないことが起こって「わらい」がおこるわけです.幼子の仕草を見て「かわいい」といって笑うのもこれに入るでしょう.彼らは大人が予想しないような言動をすることによって笑いを誘うわけです(と言ってもある程度予定調和の中にある,ぬるい笑いですが).芸能人の出るクイズ番組で,常識的な問題に答えられない芸能人を見て笑うのもこれでしょう(「なんでそんな問題が答えられないんだろう,信じられない」という意味での「予想外」).

で,このカテゴリーはさらにふたつにわかれ,「笑いの対象」を他の場所から提供する場合と,自分自身が「笑いの対象」となる場合があります.

昨今のお笑い芸人の笑いのほとんどは後者だと思います.プライドさえ捨てれば楽だから.

では,前者はなぜ難しいのかというと,まず,そういう状況を見つけ出すのが難しい.たとえば,「日常的によく見るのだが,よく考えるとおかしい」という状況を見つけ出すと,「笑い」につながるわけですが,そういうことを見つけるためには,鋭い観察眼が必要であったりするし,それがなぜおかしいのかということを表現する術も必要になってくるわけです.

このパターンは「毒舌」にもつながりうるわけですが,頭が悪い芸人が,「毒舌はおもしろい」と単純に思って,これをやると悲惨なことになります.単に自分の嫌いなものの悪口を言っているだけで何の芸もないわけです.

みんなが嫌いなものの場合は,単に悪口をいうだけでもよいかもしれませんが,そうでない場合は,やはり理由がいるわけで,そういったものがすべてすっ飛ばされ,単に自分の感情だけで物を言っていると,おかしいどころか不愉快にすら感じます.

そして,毒舌の難しさは,さらに,あまりに過剰であると,多くの人の反発を買うということです.そのあたりがうまいのが紳助で,私が彼を嫌いな理由もここにあります.ぎりぎりのところで,「いいひと」にふみとどまっているということです(毒舌を吐きながら,「実はいい人」という印象付けをするのがうまく,その辺にむしろ性格の悪さを感じる).

いかにもなににでも噛み付いているようでいて,本当にタブーなところはうまく避けています(その点はたけしもおなじだが,たけしには紳助のような話術がない).

ところで,初期のダウンタウンのコントは,別に毒舌ではないのですが,紳助との対比で言うと,かなりタブーともいえるところに挑戦していて評価できました.彼らが子供や年配者にはあまり受けないというのはわかるような気がします.

もうひとつの「笑い」は,どう表現したらいいのかわからないですが,たとえば,ふつう思いつかないような表現やアイデアを出して相手を笑わせるというものです.普通は組み合わされないふたつのものを組みあわせるとか.いわゆる「しゃれ」もこれに入るわけですが,それが誰にでも思いつくような組み合わせだと「駄洒落」になるわけです.

さて,この手の笑いは,ダウンタウンのコントでよく見られるものですし,いまでも松本のトークには時々見られます.

今でも覚えているのが(もう7,8年は前のことだと思いますが),松本が特別に「お笑い漫画道場」に出ていて,「みかん」をテーマになにか漫画を描く,となったときのことです.

フリップの真ん中にみかんがひとつ書かれているのですが,それに回答者はなにかを書き加えて笑いにするという課題でした.

他の出演者はみんな笑いが「予期しない展開」によって起こるのを知っているので,みかんの顔を地蔵に見立てたり,いかにみかんを「おもいもよらないなにかべつのもの」に見立てるかに苦心していたのですが,松本だけは,そこをさらにもうひとつひねって,みかんをみかんと見立てて,フリップにひとつだけ書かれたみかんのまわりに多くのみかんを描いて「果物屋」としたのです.

つまり,みんなが「なるべくみかんから離れること」が「予期しないこと」だと考えたのに対して,むしろ,「みかんをみかんと見ること」が「予期しないこと」であることを見て取ったのですね.こういう「通常の文法から離れる」ということに関して,本当に松本は天才だと思います.

それはともかく,いわゆる「シュールな笑い」なんかもこの部類に入るでしょう.このカテゴリーはひとつ間違えると,「不気味」になってしまう.不気味も日常からの逸脱にあるので.「ブラックジョーク」などというものがあるのも,恐怖と笑いの親近性を表していると思います.

哲学と「笑い」もそういう意味では似ていて,「日常に潜む不思議なこと」を見つけ出すのがある意味で哲学という営みであり,それゆえに,ときどき哲学は常識的な人にとっては,「笑い」の対象になってしまうことがあります.たとえば,「目の前のコップは本当に存在するかどうか」とか「アキレスは亀に追いつけるか」などという話をまじめにすると,ひとによっては大笑いするわけです. 
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by kunihisaph | 2004-08-07 09:27 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書