日々考えよう


by kunihisaph
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かゆみの意義

前から疑問なんですが,「かゆい」という感覚の進化論的な意味は何なのでしょうね

ひとつは,「いたい」と同様,体に異常があることを知らせる役目があり,それは不快な感覚なので,一度あることをしてその感覚が生じるということを経験すれば,次からはその感覚が生じないように気をつけるようになるという役割があるとは思います.

しかし,それは「次からは」ということであって,「そういう感覚が生まれてしまったとき,どうするか」ということに関しては,「いたい」と「かゆい」にはかなりの違いがあるように思えます.

「いたい」の場合だと,傷口がなにかに触れたりすると痛かったり,力を入れたら痛かったりするから痛まないように安静にしたり,傷口をなめたりして,結果,傷が治ったりするわけですが,「かゆい」の場合はどうするか.掻きますよね.

でも,かゆい箇所を掻くという行為は,かゆい箇所を根本的に治療する役割がない.むしろ悪化させさえするわけです.

だったら,なぜ,このような「かゆい」という感覚,言い換えれば,その箇所を悪化させてしまうかもしれないような掻くという行為をとらせてしまう感覚が動物(とはいっても,哺乳類とせいぜい鳥類くらいにしかこの感覚はなさそうですが)に存在するでしょうか.よくわかりませんね.

ひとつの解釈としては,進化というのは何もその生物にとっていい方向にばかり進化するわけではないということがあるかもしれません.

「かゆい」という感覚がある段階でたまたま現れたが,この「かゆい」という感覚が現れるときの体の異常というのは,異常ではあるが,「いたい」が生じるときのように生命に直接的に危険が及ぶような異常ではない.そして掻くことによって悪化することがあるのだが,しかしその場合は「いたい」になるから,そうなると,治療しようとするので問題はない(だが「かゆい」自体は治らない).

結局,「かゆい」という感覚は,生物にとって「掻くことによって異常のある箇所を悪化させることがある」という意味では不都合な感覚ではあるが,しかし特に生命に危険を及ぼす感覚でもないから,淘汰されずに残ってしまったということかもしれません.

[追記]

その後,あるテレビ番組で,掻くという行為は寄生虫や異物を取り除く役割がある,という説がいまのところ有力だという話を聞きました.
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by kunihisaph | 2005-01-23 17:32 | 人体・生命の不思議
ポジティブ・シンキングというのでしょうか.あれって「やれ」と言われてできるものでないし,「やるな」と言われてやるのをやめられるものでもないですよね.いわば個々人によって異なる体質的なものかもしれません.

私なんかは基本がルーズで楽観的なもので,なんでもいい方向に解釈してしまいます.何らかの大きな失敗をしても,「多分長い目で見ればこれを失敗したほうがよかったのだ」といろいろと勝手な理屈をつけて納得します.もちろん,後悔という概念はあるのですが,それが長続きしません.

で,自分がそうだから,他人がなにかある出来事を悪いように解釈していても,それに対してわりと簡単に「いい解釈」が思い浮かびます.ところが,それを相手に伝えても,当然,「そうかなるほどね」とそれを素直に受け入れる人と「そんなはずないやろ」と却下する人がいます.

(哲学的に深く考えるとまたややこしいのですが常識的に考えて)ある出来事は正しいかまちがっているかのいずれかですが,「解釈」には正解がありません.

だから,そういうの(ネガティブに考える人)を見ると,「なぜいい解釈があるのにわざわざ悪い解釈を取るのか」という疑問が生じるのですが,先に述べたようにこれって個々人で本来的にそれができる人とできない人がいるんですね,きっと.

さて,では,ポジティブシンキングできる人のほうが幸せなのでしょうか.

まあ,幸せは幸せでしょう.私も今までに一度ならず「いつも人生が楽しそうでいいですね」と言われたことがあります.皮肉交じりにかも知れませんが.

でも今度は「幸せであることはいいことか」という疑問が浮かびます.どうなのでしょうか.

たとえば,私なんかは自分の属している組織に対して「不満」というのを基本的にあまり抱きません.まったく,というわけではありませんけど.職場でも大学でもそして日本,現代社会というレベルでもそう.私がこの日記であまり政治について触れないのは,別になにか信念があるわけではなく,単に特に文句がないからという理由なわけです.

だから,前回の選挙は,さすがに小泉のイラク戦争支持がいやだったので,行きましたが,それがはじめての投票だったくらいです.大学や職場でも,周りの人がいろいろと不満を言っていてもあまり共感を持つことはありません.そう言われればそうかなあ,といった程度ですね.

そうすると,たとえば「日本」というレベルで考えてみると,要するに「日本をよくしよう」という気概も沸かないわけです.それを一概に「悪い」とするかどうかはともかく,まあ「発展性がない」とは言えるわけですね.

一般に「幸せである」ということは「いま自分が置かれている状況に満足している」ということです.しかし,それって,言い方を変えると,「いま自分の置かれている状況を変えたくない」ということではないでしょうか(「変えたい」と思うということは不満があるということだから)


そうすると,それを(その人自身もその人の属している組織も)改善しようとしないということで,それゆえそれ以上の発展が望めないということです.

これを「いい」とすることができるのか.それも解釈の仕方ですが,一般的な見解で解釈すると,やはり「停滞」は悪でしょう.

ということはどういうことでしょうか.ネガティブな思考をする人は自分がネガティブな思考をすること自体をネガティブに捉える傾向がありますが(「こんなネガティブなことばかり考えて私ってほんとにだめ」みたいな),実はネガティブシンキングこそ,個人のそして社会の進歩の基礎なのです.

って,ちょっと強引?
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by kunihisaph | 2005-01-11 20:47 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書

正しい謙遜の仕方

人から「そんなことを知っているなんて君って頭いいね」といわれることがあるでしょう.そんなとき,謙虚な人間は,「いいえ,そんなことも知らないなんてあなたが馬鹿なだけで,私は全然頭なんかよくないです」と答えるべきですね.
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by kunihisaph | 2005-01-05 13:04 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書

個性を伸ばすべきか

現代日本でも個性というものに対するこだわりというのは非常に強くなっています.他人にわかってもらえなくても,自分の考え方を貫く人が「かっこいい」とされたり,他人とは違うような何かをもっている人が崇拝されたりします.

もちろん,「出るくいは打たれる」というようなところが日本にはまだありますが,しかし,それは単なる「嫉妬」によるものですし,そして,その嫉妬が怖い人が,個性を抑えて他人と違うことをしないようにしようとするだけだったりします.また,単に他人に同調するほうが楽だから,というのも,個性を抑えることの理由としてあるでしょう.

とくに,若い女性のもう,ほんとに驚くくらいで,だれもかれも同じ化粧に同じ服装なわけですが,これは嫉妬に対する防御と,他人に同調する楽さ,というものがあるのだろうと私は推測します(先日も知り合いの女性化と思って声をかけたら全然違う人でした・・・).

しかし,そういう人たちも,その価値観そのものは,改めて聞くと,個性があるほうがカッコイイ,と思っているわけです.だから,他人と同調して特に目立ったことをしない人たちも,別に「そのほうが価値があるから他人と妥協している」というわけではないのがほとんどだと思います.

こういう「他人に妥協せず,わが道を行く」というようなことに価値観を見出すのは,西洋の影響です.西洋になぜこのような価値観が生まれたのでしょうか.

ひとつはキリスト教圏における「救済」の問題です.神が人を救うとき,「人間」という大雑把なくくりでは,個人の救済ができませんね.そこで人間一人ひとり(というより個物一つひとつ)には「このもの性」というものがあるという考えがドゥンス・スコトゥスという神学者によって生まれました.

これが西洋における個性重視の始まりだと思います.そして,この個性の重視と重なるもうひとつの思想が「自由」の重視です.

以前は,人間はとにかく無知なだけで「善」が何かを知ればそこに向かうものであると考えられていたのですが,スコトゥスは,人間は何が善かわかっても,それを選択しない自由が人間にはあると考えました.

キリスト教を知っても(もちろん神学者のスコトゥスにとっては信仰は「善」です),それを信仰するかしないかは個人の自由であり,だからこそ,そこであえてキリストの信仰を選択することに価値があると彼は考えたわけです.西洋における,個性や意志の重視はここに源泉を持つのです.

さて,ともかくも,個性の尊重はこのようにして西洋の価値観であるわけだけで,それほど根拠のあるものではありません.

最近の学校教育で「個性の重視」など言われますが,そんな教育が本当に必要なのでしょうか

確かに,世の中の人間すべての言動にまったく個性がなくなると何らかの問題があるのかもしれませんが(ないかもしれない),しかしそんなこと(個性がまったくなくなるということ)はありえない,と私は思います.

よく中学とか高校とかの校則とかで「個性がつぶれる」とか言いますが,そんなこと個性というものはつぶれるわけがありません.

真に強い個性ならば育てようとしなくても育つし,潰そうとしてもつぶれない.そして,別に個性がなくても,「和をもって尊しとなす」というのが日本の価値観だったわけだしそれでよいのではないかと思います.

さらに言うと,「現代社会では個性が重視されている」と言いましたが,であるということにも注目しておくことは重要かもしれません.

たとえば,勉強がまったくできない,人に迷惑ばかりかける,スポーツの才能も芸術の才能もまったくない,というのも立派な個性ですが,しかしそんな個性は誰にも歓迎されませんよね.犯罪者だって個性的ですが,社会的には重視されるどころかむしろ排除されます.

そもそもが,真に個性的な人物というのはえてして周りからすると迷惑なことが多いものです.それは日本社会がどうこうではなく,西洋諸国においてもそうでしょう.

まえに,ちょっと「自分探し」ということについて書きましたが,このようなものが「流行っている」背景には,そのような西洋の個性重視の価値観に毒され,平凡な自分を否定したくて,「他者と違う自分」というものを求めていることがあるのでしょう.

ですが,ここまで述べてきたように,個性重視という価値観は西洋の価値観に過ぎないし,さらにでは実際に「個性」というものが求められているのかというと,実は社会の中の限られた価値観にしたがうような個性(そんなものを本当に個性と呼べるのか)しか求められていないわけなのですね.

ちなみに,個性と関連してオリジナリティということをいうと,まず,「完全なオリジナル」というのはおそらく存在し得ないし,すべては人まねから始まっていると思います.そしてどんなに人まねしても(個性がないなんてことがありえないと同じように)どこかにオリジナリティは含まれている.つまり,オリジナリティのある・ないはどれくらいそのまねしたものから離れているか,もしくはまねした複数のものをうまくブレンドしているかに過ぎなかったりします.

もうひとつちなんでおくと,学問においてはオリジナリティというものがすごく重視されているように思えますが,これも最近の話で,とくに仏教においてはいかに開祖仏陀の教義に忠実であるかが重要だったし(親鸞の『教行信証』はこれが大学の卒論だと確実に落とされるようなくらい引用ばかりの本),西洋でさえ,どれだけかこの偉大な哲学者(アリストテレスなど)の思想を忠実に再現できるかが重要であったりしました.
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by kunihisaph | 2005-01-04 11:53 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書