日々考えよう


by kunihisaph
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フレディvsジェイソン

先日,『フレディvsジェイソン』をテレビで放映していたので見ました.
意外と面白かったです.

両シリーズの「お約束」を盛り込んで,どちらのファンにも気を使っているなというのがわかるし,両シリーズとも見たことがない視聴者でもフォローできるように工夫してあり,よく練られた脚本でした.この二人が対決することになる経緯も無理なく描かれたように感じます.

基本的には『エルム街の悪夢』(フレディが出てくる)の世界観がベースで,「『エルム街の悪夢』にジェイソンが出たらどうなるか」という感じでしたが,殺している人数は圧倒的にジェイソンのほうが多いので,ジェイソンファンも満足でしょう.

ただいくつか不満点もありました.
基本的にスプラッターホラーの楽しみかたというのは,

 1.登場人物が殺人鬼にじわじわ追い詰められていくところを見てはらはらどきどきする
 2.緊張が緩んだところに大音量とともに殺人鬼が現れてぎくりとする
 3.登場人物がありえないような残虐な仕方で殺されるのを見てカタルシスを得る

というものです.

まあ,特に3についてはいろいろと問題になるところではありますが,それはとりあえずおいておきましょう.

で,今回のこの『フレディvsジェイソン』なのですが,3に関してはかなりジェイソンががんばっているのですが,1と2がほとんどない.

しかし,それはジェイソンとフレディの対決というところに焦点をおいた映画のため仕方がなかったのかもしれません.

あと,13金のお約束である,「ジェイソンをやっとやっつけたと思ったらまだ生きていていきなり足をつかまれる」というシーンがなかったのもちょっと残念.最後待っていたのに.

ちなみに,ヒロインがかわいかったです.モニカ・キーナという人です.
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by kunihisaph | 2005-07-10 17:53 | 日常生活
「自由」といった場合「意志の自由」と「行動の自由」があります.

いま問題にしたいのは「行動の自由」のほうです.

あることをなそうと意図したとき,その行動の自由を妨げるものはなにか.おおきくふたつの要因があると思います.ひとつは「自己の能力」でありもうひとつは「社会的な要因」です.

たとえば「プロ野球選手になろう」と思っても,野球の才能がないと無理です.同様に,江戸時代に農民が「武士になろう」と思っても,これは才能があっても(武士になる才能というのもよくわからんが)無理です.

前者は自己の能力の限界によって制限されていて,後者は社会的な要因によって制限されているわけです.

この「社会的な要因」というのが極力取り除かれたとき,その社会は,ある意味で「理想的な社会」と呼ばれうるでしょう(これを「"緩やかな"理想社会」とでも呼びましょうか).

まあ,世の中にはいわゆる「犯罪行為」というのがあるわけで,これも制限しないのが「理想的な社会」といえるのか,という問題もありますが,しかしなにが「犯罪行為」かというのは社会によって規定されるものですから,犯罪行為を制限するのを許すと,結局どんな社会も理想的な社会になりえます(制限されているものを「犯罪行為だ」としてしまえばいいわけで,そうすれば必然的に,「犯罪行為以外は制限されていない」ということになるわけです).

ここでそういうことを論じ始めると,どんどん本筋から離れそうなので,とりあえず,現段階で一般に「これこれこういうことをすることが社会的に制限されるのはおかしいだろう」ということについて制限されていない社会を「理想的な社会」と規定することにしましょう.たとえば職業選択の自由とか信仰の自由とかそういうことです.

さて,このような「理想的な社会」が達成されたとします.しかし,これは本当にすべての人にとって望ましい社会なのでしょうか.

もし,自由を制限するひとつの大きな要因である「社会的な要因」が取り除かれてしまったら,あとは自由を制限するのは「自己の能力の限界」しかないことになります.これは多くの人にとって,実は悩ましいことではないのか.

というのも,農民に生まれた子は農民になるしか道がなかった社会と異なり,どのような職業に生まれても自分自身は他のどのような職業を選択してもよい社会においては,そもそも「自分が何になりたいか」というところから考えなければならないからです.

そして,「なにか」が見つかっても,自由が強く制限されている社会においては,たとえば「私がピアニストになれなかったのは自由のないこの社会のせいだ」と社会のせいにできるわけですが,そういう制限がなければ自分の意志を実現できなかったのはただただ自分に能力がないからわけです.(まあ,「ほかの人に私の才能を見抜く目がなかったのだ」といういいわけもできますが.というか,現代の社会でもこういう言い訳する人多いわけですが)

社会的な制約がないために,誰でもなににでもなれる「可能性」が生じた.しかし同時に「現実には」誰でもなりたいものになれるわけではない.そこに「不安」が生じるわけです.

自由が強く制限される社会においてはそれだけ不安は少ない.そこにはさまざまに開けた可能性がないからです.人生の意義や目標について思い悩む必要がないわけですね.そこにははじめから明確な道があるのです.

「こういうことをしたら罰せられるかもしれない」というのは不安ではなく「恐怖」です.恐怖というのは必ず明確な対象があり,それに対して不安の対象というのは,キェルケゴールやその不安概念を受け継いだハイデガーによると,「無」であり「どこにもないもの」です.

これを勝手に私流に解釈すると次のようなことです.人は何をしようと自由である.だが,何をすればよいのか?この無目的性,つまり目的が「ない」ことが不安であり,つまり,自由があるからこそ不安もあるのです.

現代の日本社会は,まだまだ多くの問題があるとはいえ,歴史的に見てもかなり自由の制約が少ない社会です.

しかしそれが逆に,自分の能力の限界をまざまざと眼前に突きつけられる結果となったり,生きる目的を見つけられなかったりして,引きこもりを生んだり,うつ病などのような精神的な病を増加させる要因となっている可能性があるわけです(データがないのでこれはまったくの想像ですが).

そう考えると,自由とはよいものなのかという疑問も生じます.もちろん,一方で「いま私の抱えているこの<不安>こそが私に与えられた<自由>の証だ」と考えることもできるわけですが.
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by kunihisaph | 2005-07-06 17:55 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書

幽霊vs宇宙人

それは私がまだ小学生の頃でした.私は「幽霊と宇宙人,どちらが怖いんだろう?」と思って,その問題を一生懸命考えていたのです.

この時,私が出した結論は,「幽霊というのはもともとが人間だから話せばわかるはずである.その相手の生存中に恨みを買うようなことをしていなければ大丈夫なはずだ」というものでした.

もちろん,幽霊の中には死後にやたらと気が短くなるタイプはいます.四谷怪談のお岩さんは,生きているときはあれほど我慢強かったのに,死んでからは,四谷怪談の芝居をする前にお払いをしなかったというだけの理由で生前の彼女とは何の関係もない人までをも怪我させたりするのだから.

まあ,しかしそれはともかく,幽霊はもともと人間だということで気をつければあまり被害を被らないような気がしました.

たいして宇宙人は,なんせ宇宙人です.何を考えているかまさしくわからない.コミュニケーションすらとれない可能性が大きい.そう考えるとやはり怖いのは宇宙人の方だ.私はそう考えて,この結論を学校の友達に得意げに吹聴してまわりました.

すると,その日の夜.ふと目覚めると,なんだかやたらと広い部屋に布団ごと移動しています.え,なになに?と思っていると,寝ている私を数人の宇宙人が覗き込んでいます.

そしてその中のひとりが布団の端を持ち,「宇宙人がコワイだと.テメーふざけるな」といいながら,そこらあたりを引きずりまわすのです.

もう,生きた心地がしませんでした.私は泣きながら「ゴメンナサイ,ゴメンナサイ」と必死で謝っていました.そして次に気づいたときにはもう朝で,ちゃんと自分の部屋に寝ていました.

ものすごく怖かったです.そして私はやはり宇宙人の方が怖いと思いました.
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by kunihisaph | 2005-07-05 05:21 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書

老いと健康

最近の健康ブームは「死んでも健康でいたい」と揶揄されるほどですが,このブームと同時に,若返りというか,若作りもブームですね.「アンチエイジング」とかいって.

仏教の四苦のなかには「死」とは別に「老」があります.老いることへの恐怖は死を予感させることにもあるとは思うのですが,それとは別に,老いると体が不自由になるなど苦しいことが出てくるので,これはこれで独立に「苦」だということでしょうか.

確かに,人間が不死であったとしても,老いがあるのだとしたら,やはり老いは人にとって恐ろしいものなのかもしれません.

しかし,仏教は,原始仏教はいまみたように人生における苦しみのなかに「老」というものをおきましたが,後に,特に中国へ渡ってからは,中国の仙人思想などと相俟ったのかもしれませんが,「老」に積極的な意義を見出していたような気がします.老いは悟りへ近づいているというような認識でしょうか.

さて,話を戻すと,もともとは「老」は不健康であるがゆえに恐怖の対象であったわけですが,それが「老いは醜い」という認識を生み,醜いがゆえに「老いたくない」という考えを生み出したように思います.

それで,逆に,老いから遠ざかるために健康であることが重視されるようになったのが今日ではないでしょうか.つまり,「不健康になる=老いる」ということで,不健康であることそのものが恐怖なのではなく,そこから連想される「老い」という概念に恐怖を感じているのではないでしょうか.

というのも,「アンチエイジング」というキーワードのもとに展開されている商品などを見ると,肌などのケアを中心としたものであり,健康そのものには関係ありません.

そして,このような傾向が,いい年をして若者風のファッションをしてはしゃぐジジババを生み,それを見てまた,「若さを忘れずに活動なさってステキですね」などという輩が出てきたりするわけです.

つまり,現在の風潮として,明らかに「老い=悪」「若い=善」という図式が成り立っているように思えます.そしてそれが実は健康ブームのひとつの―もちろん他にもいろいろな要因があると思いますが―要因をなすものなのかもしれません.

しかし先に述べたように,古来東洋では老いは決して忌むべき対象でなかったわけですから,この健康ブームの根本をさらにさかのぼると,近代化(という名の西洋化)に要因があるのかなとも思います.
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by kunihisaph | 2005-07-03 16:17 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書