日々考えよう


by kunihisaph
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京都科学哲学コロキウム30周年の会というのに参加しました.例会はいつも10人前後くらいなのに,さすがに今回はたくさんの人が参加してました.

例会はいつも2時始まりなので,2時に着くように会場に行ったら,今回は特別に1時半始まりでした.

前半で創設当時の大御所二名による講演があり,その後,科学的実在論について最近書かれた著作についての合評会.

それが終わった後,懇親会.懇親会は学生でも7000円という高額だったのでどうしようかと思ったのですが,出席することにしました.

すると,学生の参加者が,運営の手伝いをした学生以外は私くらいだったので,4000円に負けてもらえました.

ただ,食事の内容は2500円といったところでしょうか.こういうのってなんでこんなに高いのですかね.

ところで,こういう懇親会に出席しても,意外と私はがんがんいろんな人に話しかけたりできないほうなので(なるべくそうするように努力はしていますが),一人でボーっとしていることが多く,もったいないなあと思います.
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by kunihisaph | 2005-10-31 13:45 | 研究生活
この間の続きなんですが.

これと同様のことが,「できます・自信あります」発言にも言えますよね(あと「あきらめる」).心の底では「できそうだ」と思っても,「いやー,自信ないですよ」ということで失敗したときのリスクを避けていて,そういう意味で「自信がない」とすぐに言う人は「ずるい」(同様にやりたいことをトライにせずにあきらめるのも,どんな理由付けをしているにせよ,失敗を想定してそのリスクから逃げているわけで「ずるい」).

一方で,なんでも「できます」発言をする人は,そういうからにはやらなければいけないリスクを背負ってしまう.自信満々の発言・はったりというのも責任感のある人には非常に自分にプレッシャーをかける発言で,周りの人には不快感を与えることがありますが,自己の向上には有意義だったりするかもしれないと思います.

しかし,前も少し書いたことがあると思うのですが,このあたりって非常に微妙なのですよね.

いかにも自信なさげな人ってやはりあまり魅力がりませんね.自信に満ち溢れている人のほうが人間として魅力があります.でも,一方で謙虚な人は魅力的で自分の能力を鼻にかける人は嫌われる,ということもあります.こういう違いはどこで出てくるのでしょうか.

まあ,抽象的な言い方ですが,内面から出ているか表面だけのことなのか,という違いですよね.

「自信ない」発言が礼儀から出ているということがわかる場合は「謙虚な人だ」と評価され,リスクを避けるためや本当に自分に自信がないことから出ている場合は評価が下がるわけですよね.

一方,「自信ある」発言も同様です.

まず,過去の自慢話ばかりする人の場合.これは要するに今の自分に自信がないから過去の栄光を使って今の自分を大きく見せようとしているわけで,やはり表面を取り繕っているだけに過ぎないわけです.

では,現在もしくは未来に関する自信ある発言をしている人は,内面から自信が満ち溢れているのかというとそういうわけではない.それは自分の発言に責任をもつかもたないかで違ってきます.

だれにも検証しようのないことについて自信に満ちた発言をしたり,いざとなると逃げ出すくせにできもしないことを「できる」というのではなくて,いったからにはそれが達成できるように最大限の努力をするひとが真の意味で自信のある人ですね.

で,ちょっと話がややこしいのですが,では「すべての自信に満ちた人間は有言実行をするのか」というとこれがまた違うと思います.言うべきときに言う場合は別として,言う必要もないのに,言って自分にプレッシャーをかけモチベーションを挙げるのは,先にも述べたように自己の向上には役立ちますが,しかしある意味で「そうしないと最大限の努力をしないかもしれない」という自信のなさからきているとも言えるわけですね.不言実行も単に言うことによって責任が生じるのを恐れていわないのは「ずるい」わけですが,別に言う必要もなかったから言わなかったというのはずるくもなんともないわけです.
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by kunihisaph | 2005-10-29 15:12 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書
よく選挙があったりする投票率が低いとか何とか言って知識人(や知識人ぶっている人)が嘆いてみせたりしているわけですが(ほんとに嘆いてんのかどうかはこの際不問).

投票率低くてええやん.だってさ,投票率が0.001パーセントくらいやってみ.いま選挙権を持っている人がどれくらいおるんかわかりませんが,8000万人くらいとしましょうか.えっと,投票したのは800人?ということは,自分の投じた1票がすごく重い!なんやったら0.000001くらいでもええくらいですわ.

いいねえ.みんな投票に行くな.まあ私の1票がそんなに重くなったら確実に日本は悪くなりますけどね.

ていうかさ,民主主義って意味あんの?政治のこと何もわからん人間がたくさん集まって耳あたりだけいいこという人に投票して日本がよくなるわけ?

そしたらみんながもっと政治について勉強して考えたらいいって?そんな暇ねえよ.だからプロがおるんだろうが.

ところで,ほんとに民主主義を徹底させようと思ったら,郵政民営化法案だけでなくてそのほかの重要な法案が出るたびに解散総選挙しなきゃね.
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by kunihisaph | 2005-10-27 14:26 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書
書きたいことはいろいろあるのだけど,忙しくて書けません.ということで,ちょっとお茶にごし.

どこが発生源かわかりませんが,関西弁能力を測る会話というものがあります.以下の会話文を一読して意味が把握でき,かつ正確なイントネーションで発話できれば,あなたはネイティブ関西人かネイティブなみの関西弁能力を持っています.

「あれちゃうちゃうちゃう?」
「ちゃうちゃうちゃうちゃうちゃうで」
「えーちゃうちゃうちゃう?」
「ちゃうでちゃうちゃうちゃうって」
「ちゃうちゃうちゃうかなあ」
「ちゃうちゃう」

くだんなくてごめん・・・.
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by kunihisaph | 2005-10-26 12:28 | ネタ

ネイティヴ・チェック

論文のネイティブチェックをしてくれるというイラン系イギリス人と会見してきました.なかなかいいやつっぽい.化学専攻というのも科学哲学の論文を読んでもらうには(文型の人間に見てもらうより)いいかもしれません.博士後期課程へ進む準備中とか(修士号はイギリスの大学院でとったらしい).イギリスの大学院情報も教えてくれた.

明日は英会話をやってくれるという,何人だったっかわすれたけど,留学生に会います.こちらは学部生.心理学と社会学専攻だそうな.科学と疑似科学の境界問題をやるときにアドバイスをもらえるかもしれないから,仲良くしておこう.

最近,ちょびっとまじめにリスニングの練習をしています.すでにやったTOEFLのリスニング用問題集を使ってディクテーションをやっています.

あとライティングの勉強もちょこちょこと.
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by kunihisaph | 2005-10-24 16:36 | 研究生活
最近友人に教えてもらったのですが,坂口安吾は次のようなことを言っているらしいです(出典は不明)
私は悪人ですと言い張るのはずるい。私は善人ですと言い張ることのほうが責任は重いのだ
まあでもこれは責任感のある人にだけ言えることですし,ちょっと異論もあるし,これとは別の理由で―と思ったけどやっぱり共通するところもあるかもしれん―露悪趣味は嫌いなのですが,まあそれらのことはとりあえず置いておきましょう.ともかくこれが面白い発言であることには変わりありません.

私がそういう考え方に反対するかどうかは置いておいて,通常の意味では善行というのはその意図まで含めて評価されるので,自分が善行を行っている際にもそれが善意志から行われたものかどうかをつねにチェックしなければならず,自分の心の暗黒面と向き合う精神力が必要です.

そして,当たり前の話ですが,善人と言い張るためには善行をしなければならないわけです.だけど,この善行という基準が難しい.自分が善だと思っても悪である場合もあるわけです.それに自分の無知から来る悪行を避けなければなりません.

完璧な善などというのは存在しないわけですから,つねに「より善」を目指して,自分の言動と内面をチェックし続けなければなりません.「いまやっているのはとりあえず自分のできうる限りの善なのだからこれでいいのだ」といそこにとどまるのはやはり真の善人とはいえないでしょう.

それが本当に「できうる限り」なのか,もっとできることはあるのではないか.あることを犠牲にするのが惜しいがためにできるはずの善をおこなっていないということはないか・・・.きりがないわけですが,善人だと言い張るためにはそうしなければなりません.

とはいえ,善人だと言い張るのとその発言に責任を持つのはまた違うわけですけどね.自分が善人だと言い張らないまでも思っている(少なくとも人を偽善者だと「批判」する人間は思っている可能性が高いはずだが)人は多いと思うのですが,そのうちのどこまでが,いま言ったような生き方をしているのか・・・.

本当に自分が善人かどうかチェックせずに自分はそうだと思い,そう言い張るのは(そしてあまつさえも他人を「偽善者」呼ばわりするのは)独善的としか言いようがないわけですが.

でもそうだとしてもともかく,善人だと言い張ることは,それを本人が意識しているかどうかはともかく,こういうこと(いま私が言ったようなこと)を言われるわけですよね.

一方で悪人だと言い張ることは,そういうことから免除されているわけです,悪いことをしてもうそをついているわけではないし,仮に少しでも善行をすると,うそつきだと非難されるどころか,「悪人だとか言っているけど実はいい人かも・・・」なんていわれるわけです.ああ,悪人だと言い張るほうが得だなあ.

ちなみ私自身はそもそも(道徳的な意味での)善悪という二元論自体に疑問を感じているので,悪人であるとも言わないし,善人であるとも言いません(これはこれでずるい?).
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by kunihisaph | 2005-10-20 14:57 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書
まえに書いた,片割れが死ぬラブストーリーが多いって話ですけど.

そういえば,アメリカ映画の場合も『タイタニック』『ゴースト』『レオン』と大ヒットした映画は片割れが死んでますね.もしかして「大」がつくヒットをしたラブストーリーってみんな人が死んでいるのではないか・・・と思うくらいです.たぶん今思考がそっちに向かってしまっているからでしょうけど,「一方が死んでない大ヒットしたラブストーリー」を思いつきません.

あえて言うとすれば『冬のソナタ』でしょうか.ただあれも死に掛けてますけどね.ヨンさま.そういや,これは歌ですが,虎舞竜の『ロード』もかたわれ(しかも女性)が死んだんじゃなかったですっけ?

さて,しかし同じ片割れが死ぬといっても,アメリカの場合,死んでいるのは男性のほうなんですよね.そして,『タイタニック』と『ゴースト』は見ていないからよくわからないんですけど,少なくとも劇中ではヒロインはその後別の男性と結ばれることはないんですよね?その辺も日本のヒロインが死ぬパターンとの違いが感じられます.

ところで,前に一度,日本では「弟を見守る姉」という設定が多く,アメリカでは「妹を見守る兄」という設定が多いような気がする,という話をしたのですが,それと何か関係あるやもしれません.

それぞれの国の男性の希望を象徴してるというか.たとえば日本の場合は,よく指摘されることですが,女性に母性を求めます.キリスト教が伝来した際も「父なる神」という概念になじめずに,マリア信仰がはやったという話ですし.

で,日本の場合,だから,女性が死んだ後,ほかの女性とちゃっかり結ばれてもいいわけです.死んだのは母なので.

一方,欧米の場合は,「女性のことを命を張ってでも守るナイト」というのが男性の理想像とされているので,男は女性を守って死ぬわけです.まあ『ゴースト』の場合は死んでから守っているんですけど.

まあなんにせよ,映画や小説,ドラマなどはまだまだ,一見若い女性にこびているように見えてその実,男性の視点から描かれているものばかりだということですわ.

さて,ではなんでヒットしたラブストーリーではこれほどまでに片方が死んでいるんでしょうか.まあなんとなくすでに言い古されてきた説のような気がしますが,私は次のように思います.

人と人が出会えば必ず別れが来ます.そしてその別れにはふたつのパターンがあります.生きたままわかれるか,一方が死んで別れるか.

さて,恋愛の場合,どちらも生きたまま別れるということは,すなわち,一方のもう一方に対する愛情が冷めたということを意味します.つまり,ここでの「別れ」は肉体的にというよりも精神的な別れを意味し,恋愛の終局を意味します(だから空間的に二人の仲が引き裂かれても互いに相手のことを想っているならば別れたことにはならないし,空間的に近くとも一方の愛情が冷めれば別れたことになる).

それに対して,一方が死んだことによる別れは,あくまで肉体的な別れであって,精神的なものではありません.そして,恋愛をする主体もしくは恋愛する対象が消滅してしまったわけですから原理的に「愛が冷める」ということがありえません.つまり,一方が死んでしまうということは,このふたりには永遠に精神的な意味での「別れ」が訪れない,ということです.すなわち,「永遠の愛」「決して消えることのない愛」を意味するわけです.

どちらも生きたまま終わるラブストーリーはたとえラブラブ状態で終わったとしても,視聴者もしくは読み手に「いつか訪れる別れ」を予感させます.つまりそこから「永遠の愛」を読み取れません.ところが一方が死んでしまうラブストーリーは,視聴者もしくは読み手に「永遠の愛」を感じさせます.

つまり,ヒットしたラブストーリーにこのように一方が死んでしまうものが多いのは,永遠の愛を求める視聴者もしくは読み手が多いことを意味しているのではないでしょうか.
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by kunihisaph | 2005-10-18 13:39 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書

留学準備

どうもなかなか留学準備のテンションがあがらなかったのですが,そろそろやばいと思って本格的に準備を始めました.

その一環として科学哲学の専門家でアメリカ大学院に留学経験もある先生に推薦状を依頼しました.快く引き受けてくださったのですが,そのときについでに去年受験したときによくわからなかったある出願書類についてもきいてみました.

というか,去年,その書類はその性質上offerをもらったあとに出すものだと決めてかかっていたのですが,どうもまた今年募集要項を読み直すと出願時に出すみたいなことを書いてあるのです.それでその先生に聞いた結果,やはり出願時に出すみたいでした・・・.そりゃ去年落ちるわ.

なんなんだろうな,この注意力のなさは.自分でもうんざりします.以前にも書きましたが,(文学)修士論文を締切日前に余裕で書き上げていたのに,締め切り時間を間違えて受け取ってもらえず危うく博士後期課程にあがれなさそうになったり(物理の修士号のおかげであがれた),大学院受験時も考えていたのと別の講座に出願してしまったり・・・.

そのほかにもけっこう大事なポイントを勘違いしていることが多いです.そういや,むかし後輩に「なんか森田さん,すごく心配なのでマネージャーになってあげましょうか?」といわれたこともあります・・・.

いやー,今年はもっときをつけます.いや,いつも気をつけているつもりなんですけど.

で,あと問題はTOEFLなんですが.

11月の中旬くらいにまた受ける予定なんですが,出願しようと思っている大学院で一番高い最低スコアを要求しているところでは263も要求してきているんですよね.

おいおい.7月下旬に受けたときのスコアが247だったんですけど.しかも去年の11月に受けたときのスコアも247でいま頭打ちになって悩んでるんですけど.

あと,募集要項がわかりにくい大学院が多い.きれいに整理してわかりやすいところもあるのだけど.
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by kunihisaph | 2005-10-17 13:09 | 研究生活

痛みをともなう改革

「倫理的によりよい」とはどういうことかは難しい問題です.

たとえば,Aのボタンを押せば50人の人が死に,Bのボタンを押せば100人の人が死ぬ.このとき,倫理的によりよいのはAのボタンを押すことでしょうか.

倫理的な問題において,ふたつの選択のうちどちらを選択するかは単純に一般化できない問題です.数だけの話であるならば正解はAでしょうが,いろいろな仮定を考慮すると単純にAとは答えられない.

たとえば日本に原爆が使われたことの正当化の議論してよくあるのは,「原爆を落とすことによって戦争が早期に終結し,より多くの被害者が生じることを防げた」というものです.

ここで問題はその言明が本当かどうかにはない.もしそれが本当であっても,原爆を落としたことが正しい選択だといえるのかどうかということです.

原爆によって殺された遺族にとっては原爆投下によって多くの人の命が救われたかどうかは問題ではありません.自分の家族が殺されたことが問題なのです.

それが核兵器だろうが,竹やりだろうが,問題は自分を含めた自分の身の回りのものが被害を受けることにあるのです.

だから,原爆が投下されたことは悪であり,それでたとえほかのさらに多くの人が殺されることを免れえたとしても,「原爆が投下されたことは正解」とはならないでしょう.

私は,人間に,社会や文化とは無関係に,いろいろな「権利」が与えられているとは思いません.もちろん「生存権」もそうです.

私にとっては,遠くにいる多数の人間が虐待され殺されるよりも,うちの二匹の猫が怪我したり病気になったりすることのほうが「悪」です.

そういうことを考えるとき,社会の変革において生じる多少の犠牲を「社会全体が善くなるのだから多少の犠牲は仕方がない」と断言することはできません.

[追記]

ちなみに,ここにやはり「命の平等」について書かれた文があります.参考に.
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by kunihisaph | 2005-10-10 17:05 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書
中島義道『悪について』(岩波新書)

この人の本は共感するところも多いのですが,露悪趣味が前面に出ているところもあって,いまひとつ「のりきれない」ところがあったのですが,この本は(そこここで「中島節」が顔を出すものの)わりあい学術的なエッセイといった趣でよかった.

カント倫理学を,『罪と罰』のラスコーリニコフや『こころ』の先生などといった文学作品に登場する人物を例に挙げてわかりやすく説明してくれています.

さて,私は善行の基準を「意図」に置くことには賛成しません.この本にも書かれているように,そうなると結局,この世の中に「善行」など存在しないことになるからです.

しかし,この本に描かれている「道徳な人間(これは善い人間ではない)」という概念には非常に共感できました(それをみとめるかどうかはともかく).

思うのですが,「倫理学」というのは,「善人」には縁のない学問だなと思います.

「人の命は地球よりも重い」と何の疑念もなく言える人,「どんなに自業自得のように見えても困っている人は必ず助けるべきだ」と大真面目に言える人,「医者ならば○○すべき,教師なら××すべき,△△なら□□すべき」ということをかたくなに信じ込んでいる人,そういう人たちには倫理学は必要のないものでしょう.なぜならそこにはすでに「答え」があるのだから.

一方で,「そんなのは自業自得だから助けなくてよい」「医者だって人間だから○○してよい」などということをたいした考えもなく平気で言える人にももちろん倫理学は必要ないでしょう.

「善いはずのことをできないこと」「自分のしている善行が自己愛から出ているのではないかと疑うこと」「善行だとされていることが本当に善行なのか迷うこと」「他人に対する嫉妬や侮蔑を自覚し,それに悩むこと」そういうことをしたことのない人には倫理学は必要ないでしょう.

私がそれに反対するかどうかはともかく,道徳というのは歴史的に各人の心理にまで踏み込むものなのですから,そういう心理的葛藤のない者には倫理学は不要なわけです.

倫理学を必要とするのは(道徳的な意味での)悪人,自分が悪人であると自覚しつつそのことに悩む悪人にのみ必要なのでしょう.

ちなみに露悪的な人というのは私はあまり好きではありませんが(その理由はまた機会があれば書きます),自分が善人であると信じて疑わない人よりは道徳的であり,共感できる人間であるとおもいます.

まあ,何も考えずに「悪いのがかっこいい」とおもっているだけのアホなヤンキー(と一部のインテリ)は別ですが.
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by kunihisaph | 2005-10-07 20:06 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書