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日々考えよう


by kunihisaph
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論理的ということ

論理的という言葉は,議論などにおいて重要だとされますが,この論理的という言葉を愚直に守ると結構議論としてばかばかしいことになったりします..

たとえば「明日は雨が降るか降らないかのどちらかだ」は論理的につねに真である文ですが,新しい情報を何ももたらさない.

たとえばいま「雪は白い」という文を真だと仮定すると,「雪は白いもしくは神は存在する」は論理的に真であることになります.選言のパラドクスとか何とか言われているものです(ただしい名称は忘れた).まあ別にパラドクスでもなんでもないんですけど.

「~もしくは・・・」は「~」か「・・・」かのどちらかが正しければ真になるわけですから,ひとつ正しい文があれば,それにどんなナンセンスな文を「もしくは」でつないでいっても全体としては真になるわけです.

ちなみに,条件法のパラドクス(だったっけ?)というのもあって,たとえば「神が存在するならば雪は白い」は(「雪は白い」が真ならば)論理的に真な文となります.

結局,「論理的」とされる議論も,実際のところは,前にも一度同じようなことを書きましたが,論理的には真だとは言えないような文を多く真であると導入していて,ただその真であるとされた文が多くの人が真であると認めているようなものであるに過ぎないことが多いわけです.

そうでない場合は文章自体はかなり明晰―何を前提としているか,どういう推論過程を経ているかがはっきりしている―場合でも,その前提が多くの人が認められないようなものである場合,「論理的でない」とされたりします.

で,こういうことを考えた場合,ある意味で,どんな議論も反論しようと思えば反論するのは簡単なのですね.どのような議論にも,論理的な証明なしに真として導入されている前提があるので.

だから議論する際には,お互いにひとつひとつ「これは真だということを認めよう」という合意をしておかなければ泥沼になります.

特に倫理的な議論は,先日も書いたように,本当に人によって仮定が違ってくるので,なかなか議論がかみ合わないということが出てきます.

しかし,「命が大事」というのは,多くの人が口にしていますが,実際のところどれだけの人が本当に実感としてそれが真だと信じているのかというと,この世にあふれるさまざまな出来事をみていると―それこそ肉食であるとか戦争であるとかテロであるとか文明社会の拡大であるとか(われわれの文明的生活は直接間接に確実におおくの命を奪っている)―,かなり疑問です.

ですから,私の考えとしては,「命は大事」という命題を真と仮定して議論を始めても,どれだけの意味があるのか,という気はしてしまうのですが,どうなんでしょうね.
by kunihisaph | 2005-11-06 15:36 | ヘリクツ/疑問/雑学/読書