日常という文脈からのずれと感情:恐怖と笑いの違いについて
2006年 03月 17日
前に「『笑い』とは日常の文脈からのずれによって起こる」ということを書きましたが,単純に過ぎました.必要条件でもはあっても十分条件ではないような気がします.
(ただし,本当に「必要条件」かというのも少し問題ですが.「またかよー」というのも笑いに結びつきますが,それは「普通はそんなに繰り返さないだろう」という前提があっての笑いのような気がしますのでOKだと思いますが,吉本なんかの「いつものギャグ」による予定調和的笑いの説明がつきませんよね).
というのも,この記事でも書いた「恐怖」もそうですし,そのほかさまざまな感情はそもそも日常の文脈からのずれから起こるような気がします.たんなる「感心する」というのもそうですよね.
斬新なアイデアのSF映画なりなんなりを見て,「よくこんなこと考えるなー,面白い(interestingのほうね)」というのももちろん日常の文脈からずれているからこそおこるわけですよね.
恐怖との違いに関しては,ひとつは恐怖には「死の予感・予兆」が含まれているような「日常からの逸脱」であることだと思います.あと,「理解不可能性」というのも,「日常からの逸脱」というのに含まれますが,重要な要素ですね.
幽霊はもちろん死者ですが,しかし幽霊の登場があたりまえの事象になれば恐怖はやわらぐと思います.それが非日常的で理解不可能であるがゆえに恐怖の対象となりうるのですね.
そして,もうひとつ重要なのは「理解不可能であり,日常から逸脱しているのだけど,しかし自分の身に起こりうるかもしれない」ということだとおもいます.
ホラー映画を見ていて,ときどき「それってホラー映画というよりコメディなんですけど?」と思うことがあるますが,あれは,「死」や「理解不可能性」という要素は満たしているものの,あまりにありえなさ過ぎる場合,「笑い」に転化するからではないのでしょうか.
同じホラー映画を見ても「怖くないよー,むしろ笑えた」という人と「怖かったー」という人の違いはその映画にどれだけリアリティを感じられるかという違いでしょう.
それだけにホラー映画のアイデアのポイントはどれだけ観客に「ありそう」と思わせるかです.『着信アリ』はそういう意味ではいい着眼点だったと思うのですが,あきらかに『リング』のぱくりな点が残念です.『リング』以前に出ていればもっと高い評価を得られていたのではないかと思いますが.あと,殺され方もちょっとね.
そういえば,ホラー映画のポイントには,「幽霊なり何なりのその恐怖の対象となっているものの姿を直接見せない」もしくは「本当にそれがいるのかどうかわからない」というのが観客の想像力をかきたててより高ポイントとなります.
M.ナイトシャマランの『サイン』という映画はそういう意味で前半はすばらしかったのですが,後半でUFOや宇宙人の姿がもろ出てきて(これがまたハリウッド映画で出てくるいつもの宇宙人なんだ),がっくりきましたが,これがなければ傑作になったのではないかなと思います(でも欧米人ってこういう発想があまりないのね).
では,このポイントはさきのリアリティをもたせるのとどう関連があるのか.リアリティを出すためには具体性が必要な気がするので反証事例になっているような気がします.
しかし,個人個人でどのようなものを「ありそう」と思うかは異なります.それゆえ,むしろ想像させたほうがそれぞれのリアリティに訴えかけるのではないでしょうか.
「あれはほんとうにいたのかどうか」というのも,「いる」と断言されるよりもリアリティが強くなるような気がしますが,どうでしょうか.
そういうわけで,まあ「笑い」と「恐怖」の間には区別をつけれそうですが,斬新なアイデアの小説や漫画を読んだり映画を見たときの「感心」と「笑い」はどう区別されるのかが問題ですね.
(ただし,本当に「必要条件」かというのも少し問題ですが.「またかよー」というのも笑いに結びつきますが,それは「普通はそんなに繰り返さないだろう」という前提があっての笑いのような気がしますのでOKだと思いますが,吉本なんかの「いつものギャグ」による予定調和的笑いの説明がつきませんよね).
というのも,この記事でも書いた「恐怖」もそうですし,そのほかさまざまな感情はそもそも日常の文脈からのずれから起こるような気がします.たんなる「感心する」というのもそうですよね.
斬新なアイデアのSF映画なりなんなりを見て,「よくこんなこと考えるなー,面白い(interestingのほうね)」というのももちろん日常の文脈からずれているからこそおこるわけですよね.
恐怖との違いに関しては,ひとつは恐怖には「死の予感・予兆」が含まれているような「日常からの逸脱」であることだと思います.あと,「理解不可能性」というのも,「日常からの逸脱」というのに含まれますが,重要な要素ですね.
幽霊はもちろん死者ですが,しかし幽霊の登場があたりまえの事象になれば恐怖はやわらぐと思います.それが非日常的で理解不可能であるがゆえに恐怖の対象となりうるのですね.
そして,もうひとつ重要なのは「理解不可能であり,日常から逸脱しているのだけど,しかし自分の身に起こりうるかもしれない」ということだとおもいます.
ホラー映画を見ていて,ときどき「それってホラー映画というよりコメディなんですけど?」と思うことがあるますが,あれは,「死」や「理解不可能性」という要素は満たしているものの,あまりにありえなさ過ぎる場合,「笑い」に転化するからではないのでしょうか.
同じホラー映画を見ても「怖くないよー,むしろ笑えた」という人と「怖かったー」という人の違いはその映画にどれだけリアリティを感じられるかという違いでしょう.
それだけにホラー映画のアイデアのポイントはどれだけ観客に「ありそう」と思わせるかです.『着信アリ』はそういう意味ではいい着眼点だったと思うのですが,あきらかに『リング』のぱくりな点が残念です.『リング』以前に出ていればもっと高い評価を得られていたのではないかと思いますが.あと,殺され方もちょっとね.
そういえば,ホラー映画のポイントには,「幽霊なり何なりのその恐怖の対象となっているものの姿を直接見せない」もしくは「本当にそれがいるのかどうかわからない」というのが観客の想像力をかきたててより高ポイントとなります.
M.ナイトシャマランの『サイン』という映画はそういう意味で前半はすばらしかったのですが,後半でUFOや宇宙人の姿がもろ出てきて(これがまたハリウッド映画で出てくるいつもの宇宙人なんだ),がっくりきましたが,これがなければ傑作になったのではないかなと思います(でも欧米人ってこういう発想があまりないのね).
では,このポイントはさきのリアリティをもたせるのとどう関連があるのか.リアリティを出すためには具体性が必要な気がするので反証事例になっているような気がします.
しかし,個人個人でどのようなものを「ありそう」と思うかは異なります.それゆえ,むしろ想像させたほうがそれぞれのリアリティに訴えかけるのではないでしょうか.
「あれはほんとうにいたのかどうか」というのも,「いる」と断言されるよりもリアリティが強くなるような気がしますが,どうでしょうか.
そういうわけで,まあ「笑い」と「恐怖」の間には区別をつけれそうですが,斬新なアイデアの小説や漫画を読んだり映画を見たときの「感心」と「笑い」はどう区別されるのかが問題ですね.
by kunihisaph
| 2006-03-17 12:23
| ヘリクツ/疑問/雑学/読書